ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣
読み方
ちはやぶる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは (ありはらのなりひらあそん)
意味
不思議が多かった神代の昔にも聞いたことはありません。こんなふうに竜田川の水面に紅葉が真っ赤に映って、まるでくくり染めにしたように見えるなんて。
出典
出典は古今集(巻5・秋下294)。『古今集』の詞書には「二条の妃(きさい)の東宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)と申しける時に、御屏風(おんびょうぶ)に竜田川に紅葉流れたる絵(かた)をかけりけるを題にて詠める 業平朝臣」とあり、素性法師の「もみぢ葉の流れてとまる湊にはくれなゐ深き波や立つらむ そせい」と並んでいます。
「二条の妃」は関白藤原基経の同母妹で清和天皇の女御、のち皇太后となった藤原高子(ふじわらのたかいこ 842-910)。「東宮の御息所」とは皇太子の母。この皇太子が9歳で即位して陽成天皇となります。
決まり字
ちは
屏風を見て詠んだ歌です。
『伊勢物語』によると、在原業平は二条妃(藤原高子)が清和天皇に入内する前に熱烈な恋愛関係にあったといいます。この歌は題詠に事寄せて、いまだ忘れられない高子への想いを歌ったのかもしれません。
もっとも実際に業平と高子がそんな関係にあったとは考えにくく、一種のファンタジーと思われますが。
藤原高子(ふじわらのたかいこ 842-910)。清和天皇の后で陽成天皇の母。当時の後宮歌壇の中心人物で、在原業平・文屋康秀・素性法師らを召して歌を詠ませ、また大和屏風の発達に寄与しました。
高子はわが子陽成天皇が元服するとともに皇太后となりますが、896年自ら建立した東光寺(京都東山区)の僧善祐と密通し、54歳で皇太后を廃されます。死後943年朱雀天皇の詔によって号は復されました。