名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな 三条右大臣
なにしおわば おうさかやまの さねかずら ひとにしられで くるよしもがな(さんじょうのうだいじん)
意味
逢坂山のさねかずらが「逢う」「寝る」という男女の密会を表す言葉をふくんでいるとすれば、その逢坂山のさねかずらを手繰るように、人に知られずコッソリとあなたを訪ねていく方法があればいいのだが。
なにしおわば おうさかやまの さねかずら ひとにしられで くるよしもがな(さんじょうのうだいじん)
意味
逢坂山のさねかずらが「逢う」「寝る」という男女の密会を表す言葉をふくんでいるとすれば、その逢坂山のさねかずらを手繰るように、人に知られずコッソリとあなたを訪ねていく方法があればいいのだが。
決まり字
なにし
作者 三条右大臣
三条右大臣、藤原定方(873-932)平安時代、宇多・醍醐天皇の時代に活躍した公卿・歌人。三条に館があったので三条右大臣(さんじょうのうだいじん、さんじょうのみぎのおとど)と称されます。
父は藤原高藤、母は宮道弥益の女。延喜9年(909年)参議となり、大納言、右大臣と出世を重ねます。最終官位は右大臣従二位兼左近衛大将。紀貫之、汎河内躬恒らの庇護者でした。
「堤中納言」と言われた藤原兼輔とは良門を従弟同士で、しかも兼輔は定方の娘を妻とし親密でした。