春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山 持統天皇
はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすちょう あまのかぐやま (じとうてんのう)
意味
もう春が過ぎて夏が来たようだ。夏には真っ白な衣を干す景色が見られるという天の香久山に。
出典
新古今集・巻3・夏(175)「題しらず 持統天皇御製」。原歌は万葉集・巻1(28)「春過ぎて夏来るたるらし白妙の衣ほしたり天のかぐ山」。原歌では「衣干したり」つまり「干している」
決まり字
はるす
解説
百人一首に収録されたこの歌は『新古今和歌集』のものですが、
もとになった『万葉集』版では少し言葉も意味も違っています。
春過ぎて夏来たるらし白妙の
衣ほしたり天のかぐ山
(意味)
もう春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山には白い衣が干してある。
ある晴れた初夏の日に、女帝持統天皇が藤原宮から景色を眺められると、
東にある香具山に白い衣がたくさん干してあったのです。
「まあ…春が過ぎて、夏が来たのだわ」。
万葉集の原歌はそんな内容です。
素直に、雄大に、単純に、
目の前の景色の実感・感動を歌っています。
これが新古今和歌集版…つまり
百人一首に収録された形になると、
やや言葉も意味も変わります。
「春過ぎて夏きにけらし」…春が過ぎて夏が来たのかしら…。
意味は推量ですから、そう大きく変わりませんが、
万葉集版の「来るらし」の雄大さと比べ、どことなく、
ふにゃふにゃした響きになっています。
そして「衣干すてふ」…衣を干すという、衣を干すと話にきいている、
衣を干すというところの。
実際に目の前に衣が干してあるのを見るのではなく、
話の中に聞いた、伝聞になっています。
生の感動は、薄れています。
なぜ言葉ばかりか歌の内容まで変わってしまったのでしょうか?
一つは万葉仮名の問題があるようです。
万葉仮名…漢字だけを用いた万葉集の歌の書き方は、
平安時代にはすでに読みにくくなっており、
一つの歌にいくつもの読み方が存在したようです。
持統天皇の歌は万葉仮名では
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山
と書きます。
これでは、いかにも読むのに苦しみそうですね。
だから、複数の説が出てくるわけです。
その複数の説のうちの一つが、
『新古今和歌集』版の読みだったと思われます。
また平安人にとっては奈良の香具山は
すっかり遠い神話や伝説の世界の山になっていました。
その意味でも薄霞がかかったような
曖昧な詠み方になっているのかもしれません。
また断定を避けみやびを重んじるのが
『新古今』時代の好みでもあったのでしょう。
こうした諸々の事情から『万葉集』の実感・感動は薄められ、
『新古今和歌集』では別の歌と言ってもいいほど
内容も変わってしまったのです。
じゃあ万葉集版がすばらしくて、
新古今和歌集版はロクでもない歌かというと、
別にそんなことはなく、好みの問題です。
新古今和歌集版は
「衣ほすてふ」「春きにけらし」と、
言葉の優雅さ、響きの美しさは増しています。
こういうのが、王朝人の好みだったのでしょう。
ぜひ声に出して味わってみてください。
気持ちよさが実感できるはずです。